吹雪

ピグマリオン
今日もいつもと変わらず朝が来て
静けさは騒々しさに変わり
朝食は目玉焼き。
それぞれの好みで蛍姉にお願いするメニューは
気分を変えてその場で選ぶ子もいれば
お気に入りを貫き通したり
中にはいつも同じ調味料のままなので
ずいぶん珍しいと言われたり。
私のことです。
塩コショウを適量──
毎日決まったとおりにすれば間違いはないのに
妙に面白がられている様子なのはなぜでしょう?
妹のマリーは朝のはじまりから
いつも革命の炎と愛の嵐に巻き込まれているのは変わらないままで
メニューはそのときどきで体にあったものを選ぶひとり。
目が覚めて
今日一日を愛に生きなければ
いざ何かあったときに後悔するに違いないと考え
できることを全部しておこうと
好きな人に抱きつき
優しい言葉をねだり
朝の挨拶をねだり
返事を受け取ることをねだり。
マリーの言う本物の朝の挨拶はおはようございますだけの一般的なものではなく
まあ……言わなくても知っているはずなのでここでは繰り返すことはしません。
べたべたしすぎているという意見や
一般常識の範囲かどうなのか課題を抱えている行為と考える子もいるようだから……
……
もちろんそう考えるのは
一人というわけでもない。
一方でマリーにも味方する子も一人ではない。
ただ、誰にも認められなくてもやめるわけではなさそうだけど。
生涯を休む間もない激動の渦に巻かれ逃げ出せぬまま
それでもひと時も止めることのできない愛がある。
嵐の日々だから
いつも変わり続ける朝食を求めるのか。
嵐の日々を耐えてなお
変わり続ける朝食を求めるバイタリティと考えるべきか。
人の行動とは単純な分析を拒むものなのかもしれない。
ところで
生物学的な視点ではふつう
同じ親から生まれたきょうだいは良く似た性質を持つとされている。
相貌と肉体的性質の類似点。
なくもない……
類似が全てでもない。
性格面の相違。
嗜好のそれぞれ。
これは環境によるものもあると思われるのではっきりとは言えない。
ただ、よく似た環境で育ったのならば
生まれた土地の同じ景色を愛し
愛する人の中に見つける何かよく似たものがあるのかもしれない。
違うかもしれない。
はたして、よく似た環境の定義とは?
似ている性格の定義とは……
ところで、世の中にはこのような話もあって
長女にやや多く観察される性格や行動、
末っ子ならではの性格。
あさひが甘えんぼうになるであろうと考える人たちと
甘えんぼうになるのはお兄ちゃんが原因であろうとする説と。
お兄ちゃんとはキミのことですね。
あまり確かではない抽象的な印象論とも言えるので
このような分析は芸術や娯楽の分野でありえるとしても
どこまで科学的であるかは疑問が残る。
同じ家に育ち
キミに愛され
私たちがキミを愛し
家族として過ごして
どのように似ている部分があらわれるか。
甘え方に違いが出てくるのか
朝から嵐を感じるのか
キミが毎日この家で生きていく中で何を望み
私たちはそれぞれどう応えていきたいと考えるのか
あるいは特に何も考えないで
本能や衝動のままに任せるのか。
もしかしたら、あれも考えた上での行動である可能性も?
いえ、なんでもありません。
大きな声で言う必要がないと考える範囲も
個体によって変わってくる傾向があるという考え方もあります。
私は変化していくのかもしれないし
やはり理解しにくい考え方を受け入れようと
これからも翻弄されるのかもしれない。
それを楽しみ
いつも戸惑う日々を
受け入れ、当たり前のように愛していく今よりも振り幅を受け入れるのに適した私が
いつかあらわれるのか。
なりたいと思う誰かと、少しの部分同じになること。
家族ならば期待できる?
家族であっても……
おそらく、しばらくは変わらぬと考えられる続いていく景色に見つけるもの。
少しくらいの大嵐では揺るぐことのない、普通の日々もあると
そう考えているのは私だけではないかもしれないし
まだ情報収集と分析を長く続けていく分野なのかもしれない。