『迷宮』
この世界のどこかには
季節を忘れたみたいに
一年中花咲き乱れる場所があるという。
いつでも暖かくて
豊かな食べ物がとれて
音曲がどこにいても聞こえてくる。
徳の高い神仙が住むとも
美しく着飾った乙女ばかりがいるともいう。
また別の記述では
花を見るしか楽しみがない草に埋もれるような山奥に
旅人が迷い込むと
その素性はどこからともなく聞こえる噂で
都を追われた貴人に似ているともいう。
どちらの話を信じていいのか
あるいは根拠もない作り話なのか知らないが
深い山と風に震える花びらの海は
人を幻想に誘うように見える。
吹雪に似た白が景色を包むと
どのような神秘的な出来事でも起こると
私たちは思ってしまうようだから──
もしかすると何度かそういうこともあったのかもしれない。
現世の常識を超える
時を忘れた妖精の輪や
動物の踊り。
鬼や巨人が伸ばす手から逃れ
甘すぎる実を齧る
理の違う異界に
旅人は何かを失うか
時々は財宝を得るのか
それともただの午睡の夢と知るだけに終わるのか。
家の周りも色付いて
散り落ちるまでの夢を見ていると
私の家族も一人くらい間違えて
ここが帰る場所だとうっかり忘れ
退屈した誰かの隣に迷い込んでしまうのもいいだろう。
決して立ち去ることのないようにピンで刺してつなぎとめておく行為も合わせてだ。
それとも迷った旅人の正体は
あれだったのかな。
少し前、山から降りてきて心細い鳴き声をあげていたあの猫だ。
すでに立ち去ってしまった孤独な生き物は
一晩だけの寝床と食事を用意したら
幻惑の花びらが落ちきらないうちには
恩を感じて戻ってきてもおかしくないだろう。
しかしこの場合に恩返しをする相手は
ミルクを暖めて持っていくように言った蛍でいいのか
それともたまたまキッチンをうろついていたばかりに用を言いつけられて
皿に注いであげた私の元へと戻ってくるのか。
狂い咲きの木陰に隠れた幻をいまだ知らないのが人という身の限界だ。
ちょっとはいいことがあると考えるなら
また懲りずに用もなくキッチンにいて
日が傾くまで皿洗いを手伝わされた午後も無駄ではないだろう。
窓のほうまで枝を伸ばす桜の影にいる私たちの過ごし方は人それぞれだ。