『失われた季節』
くもり続きに覗いた晴れ間には
七色の可視光線およびスペクトル外の光線に変化が現れ
家庭的な感覚を刺激する何らかの成分を発生させるのか
久しぶりに夏が舞い戻ったかのような鮮烈な光が差した今日、
蛍の先導で人々は日当たりのよい場所に布団を並べ
竿に広げられる色とりどりの洗濯物たちもそよ風を孕みゆっくりと靡いた。
果てしないように思われた作業だった。
邪魔をしないようにと横になって眺めているだけでも疲れるほどに。
というのは冗談でちゃんと手伝った。
大変な仕事のせめてもの埋め合わせと考えたのだろう。
今夜の献立を蛍から相談されたのはおそらくそういうことだ。
あるいは、急な暑さに合う食材を用意していないことや
とっておいたパンにまさかのカビが生えていた衝撃などの理由から
たまたま近くにいたものに相談をしたという可能性も多少は残る。
せっかく訪れた珍しい暑さなのだから
耐えしのぐことよりも楽しむことを重視して
去り行く夏を惜しみ、心を込めて喜びを伝えながら送り行く
明かりの灯るビアガーデン風の夜にしたらと、
苦し紛れの思いつきの……いや、真剣に考えた提案は受け入れてもらえたようだ。
ビールに合うものは
たいていごはんにも合うという話は
幾分かの異論と、それなりの賛同があるらしい。
どちらも穀物だからとざっくり説明はされているが
それなら小豆だってちゃんとマメ科の一員だし
栄養だってあるんだ。
まあその主張は今日は引っ込めておこう。
夏の名残の夜を彩る彼らの名は
ビアホール定番のソーセージ盛り合わせ、
肉汁もジューシーなビーフメンチカツ、
豆腐の煮込みは味を馴染ませるタマネギとコンニャクが支え、
これからの季節を期待させるきのこのオーブン焼き、
風味よく野菜をたくさん取れるキャベツ入りニラ玉。
これらを大人の味のジンジャーエール
いつも愛されるレモネード、
モヒートを意識してみた香りさわやかなレモンティーも選べるし
とくにコンセプトとは関係なく観月のリクエストで玄米茶が用意され
炙った味噌が生きている冷や汁の締めを希望者には一盛り。
熱気が残る部屋には
夜になると秋の虫の声と、ひんやりした風の気配が届き
にぎやかな夜は、移り変わる日を過ごすそれぞれの思いと共に更けていく。
かつて──
まだ無邪気で世界の何たるかを知らなかった少女は
大人たちの大きな手の中で美しく輝くビールに目を奪われ
親戚のおじさんの陽気なすすめで舌の先でひとくちなめてみると
そのまま眠り込んで次の朝まで目を覚ますことはなかったという。
全てが自分の思いのままになると思い込んでいた年頃の少女は
その時から人には越えられぬ定めとつきまとう無常があると知り
自分を取り巻く景色のあり方を見つめなおし
何もかも終わりがあること、
人は限られた時間を通して
塵になることを知る時を待つだけの
宇宙の片隅に小さくひっそりと開く
いとおしい存在なのだということを受け入れるようになったのだろう。
こうして大人の自分がまだ見ぬ一つの快楽を適度にたしなむ未来は
永遠に得られぬ小さな憧れとなって遠い彼方の景色となった。
だが、この話の問題は
私は周りから聞いた内容だけで自分では全く記憶がないために
あんまり素直に信じるものだから
わりと面白がって話をあわせているのではないか?
という疑いがいつまでも拭えないことなのだが
でもわざわざ恐ろしいような挑戦をしなくてもいいし
このような騒がしい夜が訪れるなら何も惜しむべき必要はない。
さて、オマエは私から聞いたために
かわいい思い出話しをすべて思いつきの創作だと疑える状況が発生しているわけだ。
ママや海晴姉もつい調子に乗って話をあわせるのは考えられるし
私が覚えていないのだから春風も覚えていないはずだから
正確な答えを知ることはどこの誰にも出来ないという結論になる。
少女の過去とは全てそういうものであるとも言える。
ところで、ごはんがすすむのはいいが
それならばあまり強いマスタードまでは用意しなくてもいいはずだ。
こういうところで凝り性なのも蛍のかわいらしいところなのだろう。
もちろんメニューが豊富な楽しい食卓は
遠慮せず食べたいものを食べるのがいいので
このマスタードを塗りすぎた一本はオマエにあげよう。
好きだろう?
男の子だから刺激的な味を好むのはおかしくないはずだし
我慢するのも肝心だ。
刺激に耐えようと戦う顔は美しい
残す必要はないからな。